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史上最高額のワインは偽物? - 1億円の謎を解いた、科学鑑定の力

ワイン史上最も有名な偽造事件「トーマス・ジェファーソン・ボトル」。1億円以上の価値があるとされたワインの真贋を、元FBIや科学者たちが暴いていく現代のミステリー。

こんにちは、Antoineです。

もしあなたが、アメリカ建国の父であり、熱心なワイン愛好家でもあったトーマス・ジェファーソンが所有していた、という触れ込みの200年前のボルドーワインを手に入れたら、どうしますか?

あるアメリカの大富豪は1985年、その伝説のワインボトルに15万6千ドル(当時のレートで約4000万円、現在の価値では1億円以上)もの大金を支払いました。 しかし、その輝かしい物語が、巧妙に仕組まれた壮大な偽物だったとしたら…?

今日は、ワイン史上最もスキャンダラスな偽造事件として知られる「ジェファーソン・ボトル事件」の謎を、科学の力で暴いていく現代のミステリーをお話ししましょう。

史上最高額の一本 - “Th.J"と刻まれたワイン

1985年、ロンドンのクリスティーズ・オークションに、驚くべき一本が出品されました。 それは、1787年産のシャトー・ラフィット。ボトルには、“Th.J"というイニシャルが、当時の手彫りのスタイルで刻まれていました。

出品者によると、このボトルは「パリの古いアパルトマンの壁の中から発見された」ものであり、“Th.J"とは、駐フランス公使時代にワインを買い漁っていたトーマス・ジェファーソンその人である、と。

この完璧なストーリーに、世界中のコレクターが熱狂しました。 最終的にこのボトルを落札したのは、フォーブス家の大富豪、マルコム・フォーブスでした。落札額はワインとして史上最高額を更新。このニュースは世界を駆け巡り、「ジェファーソン・ボトル」は伝説となりました。

大富豪の執念 - 元FBI捜査官、動く

この事件には、もう一人の主役がいます。 同じくジェファーソン・ボトル(別のシャトーのもの)を4本、総額50万ドルで購入した大富豪、ビル・コックです。

彼は購入したワインを誇らしげに展示していましたが、ある時からそのイニシャルの刻印に、わずかな違和感を覚えるようになります。 「本当に200年前の職人が彫ったものだろうか?」

一度抱いた疑念は、やがて確信に変わります。彼は自らの財産を守るため、そして何より「真実」を追求するため、前代未聞の調査チームを結成しました。 その中には、なんと元FBIの捜査官や、数々の歴史的遺物を鑑定してきた科学者たちも含まれていたのです。

科学のメスが、偽りの物語を暴く

ここから、歴史ロマンと現代科学の壮絶な戦いが始まります。

1. 刻印の謎 まず調査チームが注目したのは、イニシャルを彫った工具でした。 彼らはマサチューセッツ工科大学(MIT)の専門家に協力を依頼。電子顕微鏡で彫られた跡を分析した結果、判明したのは衝撃の事実でした。 「この文字は、高速で回転する現代の電動ドリルのようなもので彫られている」 18世紀の職人が、手作業で彫ったものではあり得なかったのです。

2. ガラス瓶の「年齢」 次にチームは、フランスの国立研究所にボトルのガラス片を送り、その「年齢」を測定させました。 ガラスに含まれる微量の放射性同位体を分析した結果、そこには1945年の広島・長崎以降に始まった、大気圏核実験によって放出された物質が含まれていることが判明しました。 つまり、このガラス瓶は、ジェファーソンの時代には存在しなかったのです。

3. インクの正体 決定的な証拠は、イニシャルに塗られていた黒いインクでした。 分析の結果、そのインクには1950年代に発明されたシリコンが含まれていました。

歴史的な物語は、最新の科学技術によって、音を立てて崩れ落ちました。 ビル・コックが支払った数億円のワインは、すべて真っ赤な偽物だったのです。

日本文化との比較 - 真贋をめぐる執念

この事件を聞いて、私は日本の古美術の世界を思い浮かべました。 例えば、千利休が愛したと伝えられる茶碗。その価値は計り知れません。 しかし、その真贋を見極めるためには、古文書などの歴史的証拠だけでなく、土や釉薬の成分を分析する科学的な目、そして何よりも「本物か、偽物か」を見極めようとする専門家の執念が必要になります。

ビル・コックの戦いは、まさにこの専門家の執念そのものでした。彼は、ワインの背景にある物語の「真実」にこそ、価値があることを見抜いていたのです。

結論 - ワインの価値は「真実の物語」に宿る

このジェファーソン・ボトル事件は、私たちにワインの価値とは何かを問いかけます。 ワインの価値は、その液体がどれだけ美味しいか、だけではありません。その一本が背負っている**「真実の物語」**にこそ、私たちは魅了され、対価を支払うのです。

偽造犯は、歴史の物語を巧みに利用しましたが、科学の目をごまかすことはできませんでした。

次にあなたが少し背伸びして良いワインを開けるとき、ぜひ思い出してみてください。 そのワインが本物であるということは、その土地のテロワール、生産者の哲学、そして積み重ねてきた歴史のすべてが「真実」であるということ。 その真実の重みこそが、私たちの心を豊かにしてくれるのです。

À votre santé! (あなたの健康に乾杯!)


Antoine Renaud(アントワーヌ・ルノー) フランス・リヨン出身のソムリエ 京都在住3年目、日本文化を学び中